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相馬黒光、といえば新宿・中村屋の創始者、というより彫刻家荻原碌山(ろくざん)の絶作<女>のモデル、あるいは大正期の若き芸術家たちを集めたサロンの女主人、といったほうが通りがいい。いまでいう“翔んでる女”の草分け。その黒光と長年の親しい交わりを持った作家の島本久恵さんが、90歳を越えて健筆をふるった長編<俚譜薔薇来歌(りふばららいか)>には、本郷の大学正門前筋向こうの小さなパン屋中村屋の主婦黒光が店に立ち、1斤のパンを6枚に切ってバターを大きくすくって塗り、学生に売るようすや、慣れない手でワッフルを焼きながら考えごとをしていて、つい焼き損じたりする情景が、出てくる。
信州安曇野(あずみの)の旧家の息子相馬愛蔵が妻、良(のちに文名黒光)の願いもだしがたく上京、700円の大金で本郷のパン店を買い取ってささやかな店を開くのが明治34年(1901)の暮れも12月30日。インテリ夫婦の“書生パン屋”は結構売れ行きもよく、ここで日本最初のクリームパンが誕生したのは開業3年目の37年(1904)だった。
愛蔵の追憶によると、きっかけはシュークリームだった。ある日、彼はシュークリームを食べて、そのおいしさに驚く。と同時に、日ごろ何か新製品をと考えていた頭にひらめいたのは、このクリームをアンパンの餡(あん)の代りに使ってみては、というアイデアだった。理想家肌の愛蔵の胸には、このほうが栄養価もいいはずだという計算も浮かぶ。さっそくためしにこしらえてみて店へ出すと、好評だ。気をよくして前から出していたジャム入りワッフルにも応用してみることにする。折よく来店したのちの衆議院議長長島田三郎氏にも試食してもらったら、これは美味だとほめられた…こうして新製品クリームパン、クリームワッフルは創業間もない中村屋の目玉商品となる。
のち明治40年(1907)に中村屋は当時の新開地新宿に本拠を移し、2年後に同じ新宿の現在の場所に移った。その店の2階は荻原守衛、中村彝(つね)、高村光太郎、木下尚江、エロシェンコら新進芸術家の集うサロンとなるのだが、それはさておいて、明治7年(1874)の木村屋のアンパン、33年(1900)の同じく木村屋のジャムパン、37年(1904)の中村屋のクリームパン─と、これで日本の三大菓子パンは全部そろったことになる。
ただ、よくわからないのは、クリームパンは発売の最初からあの5本指の形だったのか、どうか?…もしそうなら、酒まんじゅう形のアンパン、かしわもちスタイルのジャムパンと伝統造形派の先発2者に対して、後発クリームパンのグローブ形は、いかにもハイカラ好みの愛蔵・黒光夫婦らしい発想だとも思えるのだが。 |
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