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クロワッサンの二都物語
1683年のウィーンは緊張に包まれていた。オスマン・トルコの大軍が150年前の失敗にも懲りず、ふたたびこのドナウに面したヨーロッパの古都を取り巻いていた。聖シュテファン寺院の高塔に立つ見張りの市民の目にポーランドからの救援軍はいつまでたっても現れなかった。包囲は3ヵ月余に及んでいる。

ある夜、それも真夜中のことだ。いつものようにオーブンに火をつけ、パン生地をこねていたパン屋の男が妙な物音を聞いた。音は地中深くから響いてくる。男が夜の明けるのももどかしく守備の軍営にご注進に駆けつけたのは当然である。

真相は、守りの固さに手を焼いたトルコ軍がトンネルを掘って地下から市内へ侵入しようとしていたのだった。早朝からのパン焼きの用意を前の夜遅くから始めるパン屋の習慣が市を危機から救った。これを記念してウィーンのパン屋たちが焼いたのが、トルコの国章、あの三日月の形をしたクロワッサンの始まりである。

─というこのよくできた話には、よくできた話につきものの“ソックリさん”がある。同じ時期、同じトルコ軍に包囲されたハンガリーの首都ブダペストこそクロワッサン発祥の地という説だ。こちらは1686年となっているが、夜中にパン屋がトンネル掘進の音を聞きつけるという筋書きはまったく同じ。ただ疑問があるのは、ハンガリーはとうの昔から最強期のオットマン帝国の版図に加えられており、1690年代になってやっとこの“ドナウの女王”といわれた首都はヨーロッパ人の手に戻っている。となると、この時期、トルコ軍がなぜトンネルを掘る必要があったろう。

イスタンブールの市章ともオットマン帝国の始祖オスマン・ベイが見た夢に現れたともいわれるあのトルコの三日月マークに似せたクロワッサンを、勝利を記念して焼いて食べたと聞けば、1529年、1683年、2度にわたってトルコ軍の包囲を退けたウィーンに軍配を上げたくなる。ウィーン説にはまだ後日談のおまけもついている。その80年余りあとの1770年、オーストリア・ハプスブルグ家の第4女、マリー・アントワネットがブルボン家のプリンス、のちのルイ16世におこし入れの際、パリに製法を伝えたのがこのクロワッサンだったというのだ。それでいまでは、このフレッシュバターの香りたっぷりのパンはフランス人の朝食(プチデジュネ)に欠かせないものになっている、と。

こうまで話がうまくでき過ぎると、こんどは、推理の常道に従って、らしからぬほうのブダペスト説にも注意を向けたくなってくるのだが。
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