大正7年(1918)の夏は“最も暑い夏”だった。投機買いで暴騰を繰り返す米価とそれにつれての激しい物価高のなかで、出稼ぎ漁民の妻たちが起こした富山県下の「女一揆」を皮切りに燃えひろがった米騒動は、7月から8月へかけての54日間に日本全国1道3府32県で火の手をあげ、軍隊の出動でやっと鎮火した。
9月21日、寺内首相辞表を提出。初の政党内閣の首班となった原敬は、内地米一辺倒をやめてパンを食べようと盛んに呼びかけ、軍隊でも週1回以上パン食採用とあいなった。
当時、中堅サラリーマンの月給が30〜40円、4人家族の米代が月15〜16円という資料もあるから米価の暴騰ぶりが察せられるが、それがパン食を普及させたとは皮肉なことだった。その年5月19日付大阪毎日新聞の記事にこうある。
「物価の暴騰は下級俸給生活者にとってもっとも深刻な打撃を与えた。ある役所の食堂のボーイによれば“以前下の方の官員さんの昼飯には西洋料理一皿と飯というような注文が最も多うございましたが、近ごろはそれもめっきり減って、そのかわりにバタまたはジャム付パンの需要が素晴らしくふえました。これも物価の高騰がなせるわざです”と」
レストランに出入りできるサラリーマンよりもっと低所得の人たちはどうしたろう。そのころ、東京の下町では露店で薄く切ったパンをこんろであぶり、はけでしょうゆをサッと塗ったのが1枚5厘ということではやっていたという。ちょっぴり悲しい大正風しょうゆトースト。 |
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