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水は文明の母だった。シリアのバール、エジプトのアーンケトといった水の神はどちらも女神だった。母なる大河は土を肥やし、豊熟をもたらした。チグリス、ユーフラテスはメソポタミア文明をナイルはエジプト文明を生んだ。
メソポタミアでは遠く紀元前7500〜6500年ごろ、すでに小麦が栽培され、紀元前4000年ごろには無発酵パンがつくられていたという。いっぽう、エジプトには紀元前4000年ごろにメソポタミアから大麦、小麦など穀類の栽培が伝えられ、それを機にパン焼き技術が急速に発達した。
さて、ここから古代パンの歴史は2つの地域で異なった歩みを始めることになる。パンづくりに習熟し、最初の発酵パンをつくるのに成功したのはナイルの文化だった。紀元前2600年ごろにはエジプトの宮廷では何十人というパン職人がいて活躍し、パンの種類は当時すでに200種を超えていたという。
エジプト人を「パンを食べる人」と呼んだのはパン製法には先んじていたはずのメソポタミアの民だった。
古代文化世界を分ける2つの文明、それも隣り合わせて互いに影響しあった2つの文化圏で、なぜパンづくりに差が生まれたのだろう?
ナイルの洪水はきまって小麦収穫期のあとにくる「恵み」であったのに、チグリス、ユーフラテスの氾濫は不規則で、しばしば農作物に害をなす「神の罰」であったこと。
本来、遊牧を主とし、そのうえ外敵からの侵入が多く、支配者の交代も激しかったメソポタミアには、種を寝かせるための落ち着いた時間を要求する発酵パンになじむような生活パターンがなかったのに対し、エジプトでは砂漠という自然の要害に守られ、文化とぜいたくのもとである平和があったこと。
しかし、こうしたこと以上に大きな要因があった─粘土と石だ。
メソポタミア文明はいうなれば粘土の文明だった。メソポタミアが「両河の間の土地」を意味するギリシャ語であるように、チグリスとユーフラテスの2つの河に囲まれた肥沃な平原地帯には、あり余るほどの粘土があった。都市国家の建築物にはれんがが用いられていたものの、生活の道具の多くは粘土でつくられた。小麦を刈るかまの刃さえ粘土を固く焼いてつくられた。いや彼らは人間も粘土から生まれたと信じていた節がある。12枚の粘土板に刻まれて残された〈ギルガメシュ叙事詩〉には、6日6夜の嵐のあと、洪水は静まり、人間はすべて粘土に還った、とある。
エジプト文明は石の文明だった。ピラミッドを例にあげるまでもない。偉大な王たちの宮殿も巨大な神像も、すべて石造建築だった。
さて、良質のパンには良質の小麦粉がいる。堅い石材の乏しいメソポタミアでは、小麦は粗く押しつぶすか、砕くかして、ほとんど粒のままで無発酵パンをつくるよりなかった。
片やエジプト人は豊富な石を使ってせっせと製粉にいそしんだ。まず最初は平たい石の上で押し砕き、すりつぶして。次には石と石を回転させてすり合わせ、さらに細かく。─堅い石でひいた微細な小麦粉。これこそナイルの民がバラエティー豊かな発酵パンで、チグリス、ユーフラテスの人々に大きな差をつけることができたもとだったのである。 |
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