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歴史のシナリオは、しばしば舞台にピタリの登場人物を捜し出してくる。幕末、黒船来航に世情騒然たる時代、蘭学仕込みの兵学と海防策を引っさげてスポットライトの下に現れた江川太郎左衛門もそのひとり。
名は英竜、号は担庵、古くからの伊豆韮山(にらやま)の代官の家で当主が代々太郎左衛門を名乗ることになっていて、などというのはこの際どうでもいいことで、洋式砲術の大家高島秋帆門下の砲術家、幕府の命を受け江戸湾口の防衛策を起案、品川の台場を構築、のち日本の近代兵器による武装の一環として鋼鉄製大砲鋳造のための反射炉を韮山につくる、門下には佐久間象山、桂小五郎、大山巌ほか偉材人材続出…とくれば、その“時の人”ぶりがわかる。
この「日本海防の父」がまた「パン祖」でもあった。
ときは天保13年(1842)、イギリスはアヘン戦争で清国に香港割譲と屈辱的な開港を迫り、報はいち早く長崎から江戸表に届く。さあ、次は英艦の北上か。このなかで江川太郎左衛門はイザ本土防衛戦には握りめしでは戦えぬ、と考えた。火をおこしてめしなど炊いていたら、その煙めがけてドカーンと大砲の弾が飛んでくる。ここはパンに限る。兵糧パンを開発せねばならぬ。
さいわい江戸で高島秋帆先生の従者作太郎という男に会ったことがあり、彼は長崎者でオランダ渡りの製パン術を心得ていたはず、あの男に聞こう。
太郎左衛門はさっそく江戸詰めの配下柏木某に手紙を出す。「イノシシ狩りで試みにパンを使ってみたのだが、しごく重宝した。パンのつくり方をいろいろと知りたいので、お前、作太郎に会ってとくと聞いてくるように。こちらでは、うどん粉とまんじゅうのもとを使ってつくっているが、卵、砂糖なども味をよくする意味で加えている。しかし長く日もちさせる方法など、作太郎なら知っているはずだ。理屈だけでなく、ちゃんと手伝って習ってくるのだぞ」
イノシシ狩りとは、演習の暗号らしい。また「まんじゅうのもと」というのは、小麦粉を甘酒でこねてひと晩寝かせる、といった酒まんじゅうのもとのようなものだったろう。当時より相当以前の『製菓集』(1718)などという書物に「古めん」と呼ばれるこうした酒だねでパンをつくる方法が記されている。
さて、ほどなく柏木から返事が届く。「おっしゃるとおり、材料はうどん粉とまんじゅうのもと、味をよくするための鶏卵と砂糖でいいようですが、これはいわば長崎風。西洋では麦をあらびきし、塩少々入れて味をつけて焼くそうです。その焼き方はむずかしく、厚さ7寸もある切り石で、まきが20把もはいるような大きなかまをつくり、土でよく塗りつけて…」
その報告に従って韮山の江川邸にパン焼きがまが急ぎ構築された。天保13年4月12日、ここで兵糧パンの試験焼きが行われる。江戸日本橋の薬屋にいた作太郎も伊豆に急行してきている。彼の指導のもとにつくられたのは、多分、軍用に日もちをよくした乾パン風のものだったにちがいない。
太郎左衛門の憂慮した対英防衛戦で乾パンが活躍する場面はついになかったけれど、彼の試作兵糧パンはたちまち各藩に広がっていった。水戸、薩摩、長州と、のちの官軍がこぞって兵糧パンを大々的に採用していたことを、安政2年(1855)に死んだ幕府の代官江川は地下でどう見ていたろうか?
韮山の江川邸、築後700年という古い屋敷を残す構内に自然木を使った碑が立っている。そこには徳富蘇峰の筆で「パン祖江川担庵先生邸」の文字が大きく彫られてある。 |
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