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未牟岐(マムギ)の道
ユーラシア大陸のかなたから日本列島に小麦が渡ってきたのはいつのころだったろう?

女性の神が何かの理由で殺され、そのからだから五穀が生じたという「穀物創成神話」がある。『古事記』(712)ではスサノオノミコトが高天原でオオケツヒメを殺す。するとヒメの「頭に蚕生(な)り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰(ほど)に麦生り、尻に大豆(まめ)生りき」。『日本書紀』(720)ではツキヨミノミコトが中つ国のウケモチノカミを殺す。ここではその死体をあとで検分すると牛、馬、蚕のほかに穀物がからだの各部から生じていた。穀物は『古事記』よりもうひとつヒエが増えて6種類になっている。麦はやはり陰部から生まれていた。

神話は歴史的事実ではないにしても、事実の反映ではありうる。記紀神話が書かれた8世紀初頭、麦はすでに栽培植物として人々になじみ深いものになっていたことがわかる。

ただ、ここでは麦というだけで、大麦、小麦の区別がない。文献にその区別が初登場するのは養老6年(722)7月、元正天皇の詔勅である。「この夏は雨が降らず、稲の苗の育ちが悪い。天下の国司は農民におくてのアワ、ソバ、および大小麦を植えさせ、倉にたくわえるように」と指示している。

このあたりから想像できるのは、大麦、小麦の渡来はもっと以前であったろうが、多分、他の雑穀なみに煮たり炒ったりの粒食で、食べ物としての座は米より格段に低いものだったのだろうということ。それが奈良時代に入って、大麦、小麦の区別がはっきりしてきたのは、粉食としての小麦の食べ方がこの時代になって確立されたのだろう。

この時代─お隣の文化先進国、唐ではシルクロード経由の西域文化が最新流行を競っている。長安の繁華街には胡食(粉食)店が軒をつらね、酒場ではイランの女が人気を呼んでいる。西方の小麦粉文化は唐菓子として次々と海を渡り、奈良の都へ届けられてきた。粉食加工品の原材料小麦の格がグンと上がってきたのはこうした時代背景のなかだった。

源順の『倭名類聚抄』(934)によれば、小麦は古牟岐(コムギ)、または未牟岐(マムギ)と呼ばれたとしている。大麦は布止牟岐(フトムギ)、または加知加太(カチカタ)。のちに新井白石は「カチ」はつくこと、「カタ」は硬いこと、つまり大麦はつくのに硬い麦だった、「マ」は「真」で、古人は小麦をもって真の麦としていたのだ、と解いている。事実、『倭名抄』と同時代の『延喜式』が麦の上納地としてあげている山城、大和、河内、和泉、摂津、阿波の6カ国からの大麦の貢納量が合計12石なのに対し、小麦は206石を超えている。圧倒的に小麦主流なのだ。

さて、こうして小麦の計画的耕作と粉食が本格化したのは奈良時代からだったことはわかったが、それにしても小麦そのものの渡来はいつのころだったのか?

物的証拠から見ていこう。まず静岡県の登呂遺跡、長崎県壱岐島の原ノ辻遺跡、福岡県の夜臼遺跡から小麦の粒が発見されている。遺跡の年代からみて小麦の伝来は弥生中・後期というのがその面からの結論だった。ところが昭和55年になって松山市石風呂町の鶴ヶ峠遺跡からも70粒の小麦が出土した。ここは弥生前期の遺跡だという。とすれば、紀元前3世紀ごろの弥生前期に小麦が栽培されていたことになる。いや、それ以前、縄文晩期にはすでに戦乱の大陸から小麦をたずさえた人々がこの国に渡ってきていたのではないか。

経路は朝鮮半島経由ではなかったろうか。金沢庄三郎博士は、記紀神話で麦が生じたとされる陰部を指す朝鮮語(Pochi)と麦の朝鮮名(Pori)に類語的な関連を見ている。

朝鮮最古の史書『三国史記』には驚くほど麦関係の記載が多いという。それも遠い伝説時代の記述に盛んに麦が出てくる。そういえば『延喜式』に麦多作地帯としてあげられた前記6カ国のうち阿波を除く五幾内は、古来、半島からの帰化人が最も多く集まり住んだ地域でもあった。

前漢の人、張騫(ちょうけん)や騎馬将軍たちによって「絹の道」が天山を越えたのは紀元前2世紀前半。そのころすでにこの国に大陸からの「未牟岐(マムギ)の道」が通っていたとすれば、そのあまりの早さは信じられないほどである。
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