コナモンライブラリ
「日本コナモン協会」会長の熊谷真菜氏が、各地に伝わる粉の食文化からコナモンのルーツをたどる「名物コナモン探訪」。
第1回は「大阪たこ焼」をご紹介。
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- 大阪で生まれた国民的おやつ、たこ焼
- 江戸時代、天下の台所と呼ばれた大阪。
数多くある大阪生まれの食べ物のなかでも、たこ焼はいまでは国民的おやつとして、世界でも注目されています。
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- タコがはいる前の“たこ焼”
- たこ焼の始まりは、「ラヂオ焼」という小さな丸いコナモンから。当時、タコは入っていませんでした。
「明石はタコ入れとるで」というお客さんの一言で入れるようになったとか。
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- 「たこパ」は、お父ちゃんの活躍から生まれた
- 昭和中期、たこ焼屋台を見た父親が道具を手作りして、家庭でもたこ焼を食べるように。
人を呼ぶ「たこ焼パーティ」は「たこパ」と呼ばれ、現代の若い世代にも支持を得るようになります。
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- 進化するたこ焼器
- 戦後、たこ焼が人気になるにつれ、より多く早く焼けるたこ焼器の改良が進みました。
高度経済成長のころ、大阪の下町や縁日ではかなりの数が売れていたそうです。
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- ソース、青のり使いは戦後から
- 始めは何もつけずに食べていたたこ焼。実は「コナモンはだしが命」と言われ、そのまま食べてみるのもおすすめ。
表面の皮、内側のトロッとした食感、タコのプリッとした食感も魅力です。
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- 世界に広がるたこ焼の魅力
- 世界が和食に注目する中、たこ焼も「TAKOYAKI」として、ニューヨークなど世界各国で食されるように。
また、インドネシアの王女はたこ焼好きで、お店までオープンさせています。
大阪で生まれた国民的おやつ、たこ焼

江戸時代に天下の台所と呼ばれた大阪(当時は“大坂”)は、日本が誇る食都。ここから生まれ育った食べ物は多く、なかでもたこ焼は、大阪の食文化を代表するメニューとして有名に。いまでは国民的おやつとして、世界でも注目されています。
なぜ、たこ焼は大阪で生まれたのか。だれもが大好きなたこ焼の魅力と秘密、そのルーツをご紹介しましょう。
タコがはいる前の“たこ焼”


紡績や鉄鋼業の隆盛で発展した大阪が「大大阪」と呼ばれ、世界が注目していた昭和初期。各地から集まった労働者とその家族は、毎晩、夜店で飲食するのを楽しみにしていました。そこには「うどん」「おでん」「焼きいも」など、食べ物の屋台がたくさん。そのなかに「ラヂオ焼」という、小さなコナモンがありました。
いまのたこ焼器と同じ大きさのくぼみが刻まれた鉄鋳物(いもの)の鍋を炭火のカンテキ(七輪)にのせます。まず水で溶いた小麦粉を型に流しこみ、醤油で味付けしたコンニャクやえんどう豆を入れ、くるりと返して焼き上げます。
「ラヂオ焼」の由来は、ラジオを聴くための半球状のヘッドフォンに形が似ていたから、ラジオが最先端だったのでその人気にあやかって名づけられた、など諸説あります。


たこ焼の前身「ラヂオ焼き」はソースも何もつけずに食べていたので、お客さんがたくさん買ってくれるもっと美味しいものを作ろうと、いろんな人が工夫を重ねました。
その一人、会津坂下町(福島県)出身の遠藤留吉さんは、故郷の味をヒントに生地を醤油で味付けし牛すじを入れた「肉焼き」を始めました。そして昭和8年、あるお客さんの「ここは肉かいな、明石はタコ入れとるで」という声を聞き、タコを入れるようになったそうです。


私のたこ焼研究の第一歩は、この「会津屋」初代・留吉さんへのインタビューでした。二代目、三代目も昭和の味を継承し「会津屋」は当時から続くもっとも古いたこ焼屋さんといえます。
もう1つのルーツといわれるのが「ちょぼ焼」。大正期から西日本を中心に屋台がありました。はがき大の銅鍋に15個のくぼみがあり“たこ焼器のミニチュア版”ともいえます。こちらも大人向けにはタコがはいっていたそうです。
「たこパ」は、お父ちゃんの活躍から生まれた

「一家に一台たこ焼器がある」といえば昔は関西くらいでしたが、いまでは各地にこの習慣が広まっています。
大阪にたこ焼屋台が急増した昭和29〜30年代、屋台を見たお父ちゃんがミナミの千日前・道具屋筋で鉄板や提灯を買い、家で子どもにたこ焼を焼くようになり、家庭用たこ焼器が登場。休みの前日には「明日たこ焼するから、お母ちゃん、今晩は天ぷらにしてな」と。天かすが必要なので、わざわざ前日の夕食は天ぷらにして、たこ焼に備えたのでした。
パーティという言葉が、まだ珍しかった時代。「たこ焼パーティをするので来てください」と招待状をもらい、子どもたちはワクワクしたものです。大人になって家庭をもつと、自分の子どもにも家でたこ焼を作りました。この「たこ焼パーティ」は1990年代ごろから「たこパ」と呼ばれるようになり、若い世代にも支持を得るようになります。
進化するたこ焼器



ベビーカステラやたこ焼などを作る道具製作の老舗・大阪市生野区「旭進ガス機製作所」吉村健一社長は「鋳物のたこ焼の鍋は15個焼きが主流やったけど、戦後は28個焼きに変わりましたな。焼きあがるのに15分はかかるので、お客さんを待たせないようにと穴をふやしたんです。鍋も鋳物から銅へと変わって、少しでも速う焼けるように道具を改良してきました。昭和20年代後半の高度経済成長のころは、たこ焼器が本当によく売れました。道頓堀にはたこ焼専門店はまだ少なかったけれど、大阪の下町や縁日では、めちゃくちゃ売れてましたね」。
ソース、青のり使いは戦後から

たこ焼の味付けの定番、濃厚ソースと呼ばれるものが生まれたのは昭和23年。それまではウスターソースしかなく、何もつけずに食べていました。野菜と果物をミキサーにかけて調味料を加え、コーンスターチでとろみをつけたトンカツソース。これをフネに並べたたこ焼にぬり、青のり、カツオ節をかけ、爪楊枝で食べる、今のスタイルが生まれました。
味付けという面ではソースに目が行きがちですが、実は「コナモンはだしが命」と言われています。とくにたこ焼は小麦粉を真昆布ベースのだしで溶くのが特長。そのため、最初の1、2個はソースなしで食べて「あ、この店はこんな味やわ」と、だしの味を確認するのも楽しみのひとつ。タコから出るうま味と、小麦粉、だしの味が相乗効果を生むのです。小さな食べ物ですが、その中に美味しさが凝縮されています。
たこ焼は味も大事ですが、決め手は食感にあります。表面の皮、内側のトロッとした食感、それにタコのプリッとした食感。3つの食感が一口サイズにまとまっているのが魅力です。ゆるゆるの生地を何回も返しながら丸くする作業はたいへんですが、それがおいしい食感を生むのです。



世界に広がるたこ焼の魅力

大阪生まれのたこ焼の魅力を世界に広めていきたいと、2012年「道頓堀たこ焼連合会」が結成されました。「くくる」「たこ昌」「たこ八」「十八番」の各社さんが、イベント限定で4社の生地を合わせた夢のたこ焼を作ります。スペシャルなたこ焼に、地元の人も大喜び。
また、いまでは当たり前の「たこ焼粉」は、実は1980年代生まれ。発売を機に、たこパをする人も増えました。加えて世界が和食に注目する中、たこ焼も「TAKOYAKI」として、世界各国で食されています。ニューヨークには“RAMEN”店が急増していますが、サイドメニューにはTAKOYAKIが。冷凍のものを揚げて出しています。
インドネシアのグスティー・マンクブミ王女は、たこ焼好き。お店までオープンさせています。実はその際、日本コナモン協会もお手伝いをしたんですが、タコを食べなかった彼らが、いまはラマダン(断食)明けにたこパをするというのです。インドネシアとの国交60周年の際は、ジャカルタやジョグジャカルタで日本祭りが開催され、たこ焼の出店もありました。
※商品の価格は2018年5月のものです。